2009/3/30

体長約2、5m、体重は約300kgを優に超す巨体。
グリズリーと呼ばれる、アメリカ北部に生息するハイイログマであり保護動物である。
単独行動を好むクマ科の大型動物が群れを成しているというのは、自然界では到底見ることはできない。
ここはアメリカの国立公園なのか?
あまりにも不自然な景観に、私は疑問を投げかけた。
周りを見渡すも、広大な土地にはグリズリーの群れと木々以外は何も見当たらなかった。
後足で立ち上がり互いに権勢しているもの。
鼻をひくつかせながら、地を這うようなうなり声をあげているもの。
また口元からは唾液を零し、体を左右に揺らして餌を探しているもの。
これは夢か悪夢か。
目の前の景色と自分に境界線はない。
柔らかに溶け込む現実に、思わず私は恐れをなした。
連なる黒き山々がこちらを見ている。
鈍く光る双眼が「私」を見つけたからだ。
群れの中でも一際大きく、目立つ個体がゆっくりと私に向かって歩みを始めた。
心臓は激しく脈打っている。
野生下の獣、ましてやこの数のクマに素手で太刀打ちできる人間など、この世のどこを探せばいるのだろうか。
逃げなければいけない。
間近に危険が迫り、真っ先に考えつくことだった。
しかし、一体どこへ逃げれば助かるというのだろうか。
にじり寄る闇の中、私は微かな光を求めた。
先ほど見渡した時には気付かなかったが、少し離れた場所に縄梯子をかけたツリーハウスを見つけた。
保護区域にある観察用のものだろうか?
しかしながらクマは木をも制する生き物だ。
首尾よくツリーハウスに行き着き縄梯子を引き上げたところで、グリズリーはかぎ爪のような豪腕を巧みに使い、たちまち木を登って来てしまうだろう。
俗にクマに出会ったら死んだフリをしろという説があるが、あれはまったくもっての作り話である。
肉食動物に対して死を演じることは、自らの身を捧げることに同じであり、助かる見込みのない無謀な行為である。
有効な手段として言われているのはクマの通り道を空けること、そして走り去らないこと。
獣は縄張りを持ち、逃げるものを追う習性がある。
またどんなに俊足のものと言えど、時速60kmで走ることができるクマに対抗はできない。
立ちはだかる野生を前にして、人である私に選択権はほぼありはしなかった。
一歩、また一歩と、少しずつ後ずさる私に反し、グリズリーは一歩にじり寄るごとに、威厳に満ちた風貌をより大きく見せた。
両者の足が止まり、微妙な距離が張り詰めた空間を保っていた。
一秒がとてつもなく長く感じる。
静寂の空だけが私達を見つめていた。
まるでこの場所だけ時が止まっている、ふと一瞬、そんな感覚が頭を過った。
その瞬間だった。
突如目の前に強大な闇が降り立ち、私は紛れもない「死」を予感した。
咄嗟に目を閉じたのか、闇に飲み込まれたのか、或いはその両方であった。
わかっていることといえばたったひとつ。
これは死への覚悟ではない。
だが逃れられる術がないということに違いはない。
即ち導かれた暗き結末から、私を救う手立てなどあるはずもないと確信したのだった。
「...おまえは変わったクマだな」

頭上から振り落とされるのは我が身を裂く為の爪牙、ではなく、くぐもった男の声であった。
変わったクマ...?
救いの声の存在に驚く前に、訝しい言葉に耳を疑った。
声の主の顔は未だ見てはいない。
声色から想像した人物像は口髭と顎髭をたっぷりと蓄え、体格は山の様に大きく、厳めしい顔つき。
そう、まるでクマのような...
「おい、新入りか?」
私の思考を割り入るように、再びその口は開かれた。
恐る恐る目を開き、顔をあげるとそこにはなんと.....
立ちはだかる巨大なグリズリーの王とも言うべき威風堂々とした姿が在った。

.....って、おい!!(笑)
クマがしゃべってるよ!!!
と、そこでなんとなく夢だと気付いたのですが、その後クマは
「どれ、サイズをはかってやろう」
なぜかメジャーをどこからか(おなかにポケットがあったような)取り出して、
「色々と違うな...」
とかなんとか言いながら、(そりゃクマさんとは違うよね、あんなにモフモフじゃないし)最終的には、
「よし、じゃあいいよ。許可するからおまえはあっちの群れな!」
と言うと、あっけにとられる僕を他所にどこかへ去っていきました...。
とはいえ、まだ夢が覚めないのでとりあえずツリーハウスを登ることにしました。
縄梯子に足をかけると、なぜか僕の臀部に刺激が。
背後を見るとアライグマがシャーシャー言いながらデニムのポケットを引っ張っているではないか!
あっちへお行き!と手で払うと次から次へと新たなアライグマが邪魔をするのです。
...辛うじてツリーハウスに辿り着くものの、小屋は下から見上げていた時よりも、やや小さな佇まい。
なんとか夢が覚めるまでこの中でいようと、僕は小屋の簡素なドアを開けることにしました。
するとその小屋の中には、赤い帽子を被った子供なのか老人なのかわからない容姿の小人が、酔っぱらって寝転がっていました。
はぁ...と溜め息を吐くと、小人はいけしゃしゃあと
「大変だったな!まぁこれでも飲めよ」
と自分の持っている瓶を勧めて来たのです。
「これなに?...お酒?」
心底で苛つきながらも僕は訊き返しました。
「クランベリーだよ」
小人は答えました。
クランベリーといえば酸味の強い赤い実で、ジュースやジャムの原料になるもの。
泥酔した小人に僕は再び声をかけることにしました。
「クランベリーのお酒?」
「酒じゃない」
「お酒じゃないならなぜ酔っているの?」
すると小人は
「うるせー!俺は酒じゃなくても酔うんだ!!」
意味がわかりませんが(笑)、どうやら逆鱗に触れてしまったようです。
「せっかく良いこと教えてやろうと思ったのに!」
良いことってなんだろう?
ほんの少しだけ興味惹かれた僕が
「ごめんね、謝るから教えてくれる?」
と丁寧に訊き直すと、小人はすぐに機嫌を直してくれました。
「しょうがねーな、教えてやるよ!絶対誰にも教えんなよー」
この小人、大変口が悪いようで、しかも本当は僕に教えたかったのではなかろうか。
そんなことも思いつつ、一応黙って話を聞くことに。
「実はな...」
「うん」
相づちを打ちながら、息を呑む瞬間。
「グリズリーはクランベリーが苦手なんだよ」
.....苦手?
確かにクランベリーは酸味が強い。
とはいえグリズリーは肉以外に、木の実も食べる生き物。
不思議に思った僕は小人に問い質した。
「なにか理由はあるの?」
すると小人はあっけらかんとした表情で
「知らねーよ。名前が似てっからじゃねーか?ん?」

.....って、おい!!(笑)
もう嫌だ、変な夢すぎる...。
小人、否、ただの変なおじさんは、まるで日本酒の一升瓶を飲む様にして、ぐびぐびと軽快にクランベリージュースを飲み始めた。
もはや泥酔の域である.....誰も止められない。
早く夢よ覚めてくれ!!
というか夢でなければ困る!!

と叫んでいると、やっとのことで目が覚めました。
時計を見ると、タイマーより45分早い模様。
嫌な目覚めでしたが、やたらと鮮明に覚えていたので、ついでに皆さんにもお伝えしようと(笑)書き記した次第であります。
夢から作詞作曲することがありますが、今回のこの夢は残念ながらあまり役には立ちそうにありませんね(笑)。

その後、喉に良いハチミツとショウガ、ミルクをたっぷり入れた紅茶、「ハニージンジャー・ティー・ラテ」を頂いて、一息。
ハニージンジャーは通常、瓶にハチミツとスライスしたショウガを入れて作り置きするらしいですが、僕は面倒なので、お手軽な方法で飲んでいます。
ハチミツをスプーンにひとさじ、それにチューブのショウガをお好みで入れて少量のお湯で溶かします。
それからお湯1:ミルク3で作った濃いめのミルクティーにハニージンジャーを入れれば出来上がり。
紅茶はミルクティーと相性のいいウバやアッサムがオススメですが、柑橘系の香りの強いアールグレイでなければ、なんでもいいと思います。
風邪気味の時や、喉が痛かったり体が疲れている時。
秋冬はホットで、春夏はアイスで飲んでも美味しいので、是非お試し下さいね!

あれ?でもハチミツってクマの好物だよね?
...僕ってやっぱり変わったクマ??

2009/03/10

花散れど 瞬く天は 永久を経る
(はなちれど またたくそらは とわをへる)

春という季節は、麗らかな反面どこか寂しさを感じずにはいられません。
人間の人生というのは、宇宙の歴史から見るととてつもなく儚いものです。
昨日、3月にバンドが解散する友人から、ラストライヴの知らせをうけました。
彼は8年ほど前からの友人で、かつては共に同じアルバイトをしたり、セッションバンドを組んでライヴをしたり、互いに夢を語り合うこともありました。

この春、友人のバンド以外にもいくつかのバンドの解散、そしてを脱退を耳にしました。
僕も今まで在籍したバンドでそれらを経験してきましたが、とても一言では言い尽くせません。
メンバーだけでなく、ファンや関係者、色々な人の、色々な想いが複雑に絡み合って生まれてしまうひとつの答え。
全員の気持ちが固く結びついていても、時の流れと共に歩む速度、目指す場所、価値観に違いが生じてしまったり、避けられない大きな壁を前にして、儚くも分かたれてしまう場合もあります。
悲しいことですが、家族や友人同士のように「好きだから」という気持ちだけでは、バンドを存続させていくことは難しいことなのかもしれません。
インディーズやメジャーに問わず、どのバンドも、由のすべてを皆さんに露にすることはありませんが、百あれば百通りの、否、無数の由が存在していると思います。
ほとんどの人は一生懸命なのだと思います。
それなのに、なぜかうまくいかないことがあるのです。
人故に、人だから、なのでしょうか。

土壌に種が蒔かれると、やがて芽が出、空に向かって葉を増やします。
膨らんだ蕾は、やがて美しく咲きほころぶことでしょう。
燦々と降り注ぐ日の光と恵みの雨は必要不可欠なものです。
ですが、時にそれらは脅威へと姿を変えることもあります。
照り付ける太陽、荒れ狂う雨風の前では為す術もありません。

形あるものはいつか必ず終わりがやってきてしまいます。
それは花とてバンドとて同じこと。
どんなに美しく咲き誇っていても、いつかは終焉を迎えます。
人の世は短く、バンドの一生は人生より更に短いものです。
それでも、夢を目指した日々や、ファンのみんなが愛してくれた日々は一瞬一瞬が永遠で、誰にも変えることはできないのだと思います。
バンドによって表現の方法は違っても、それぞれが一生懸命に美しい花を咲かせようと頑張ってきたはずです。
「Ultimate Lover」の歌詞にもあるように、大切な瞬間のひとつひとつを、記憶の一部として永遠に愛してほしいし、愛し続けることで、きっと永遠になるのではないでしょうか。
僕にはただ見守ることしてできませんが、ひとつのバンドの終わりを、この目に残してきたいと思っています。

それから改めて誤解のないよう、ここに記しておきたいのですが、最近よく色んなところでインディーズ時代について「苦労人」と言われることがあります。
ですが、好きなことだからこそ一生懸命してきた、また、しているのであって、時間に追われることがあって「大変だな」と感じ、「努力」することはあっても、それは「苦労」と思ったことはありません。
努める事柄は人それぞれ異なるので、人によって多少の差は生じることもあると思いますが、ひとつの目標に向かって一生懸命になることは当然の行いだと思いますし、自分の意思の表れだと思っています。
僕らが自分達で選んだ道であって、無理矢理誰かに歩かされてきたわけではありません。
本当の意味で「苦労」されている方は、他にたくさんいらっしゃいますから、滅相もないお話です。

僕は音楽が好きだから今も音楽を続けています。
だからこそいつも素直な気持ちでいたいし、「音楽に嘘はつきたくない」そんなようなことを先日のブランドエックスでのインストアイベントの最後に言いました。
この日はDVDの先行試写会があったのですが、メンバーも客席で鑑賞させていただきました。
普段はステージと客席は分かれているので、共に同じ視点でDを見るというのはなかなか貴重な体験だったのですが、不思議と安心感を覚えました。
ファンのみんなに包まれている感じと言うか、心地良かったのです。
ライヴの様に歓声が上がったり、手を差し伸べてくれるみんなを見て、Dが愛されていることを改めて実感しました。
みんなの声はいつも暖かいね。

それから、プロデューサーの岡野さんに言ってもらえた言葉で嬉しかった言葉があります。
「あさぎ君の歌詞は、あの曲ではこういう思想、この曲ではこういう思想というわけではなく、逆に同じことを延々と無意味に綴っているわけでもないからそこが良いね」
そう言ってもらえたのが純粋に嬉しかった。
例えば作家さんはきっと、色んな目線で、思考の違う様々な人の視点からストーリーを描かなければいけないのだと思います。
僕も曲によって、色んな視点から、時には性別や種や時間を越えて描くことがあります。
ですがどの曲の世界観も、必ず「僕」と言うアイデンティティーが基盤になっているので、軸からずれ、正反対のことを言うということはありません。
その点を理解してもらえたのも、とても有り難いことでした。
今までに出逢ってきた関係者の皆さんにも、様々なことを学ばさせて頂いてきましたし、メンバーは勿論、ここに来て、岡野さんという音楽的に支えてくれる、良き理解者に出逢えたのは自分の中ですごく大きかったです。

今現在、多くの音楽関係者様には、大変良くして貰っておりますし、音楽性や世界観においても、多大なご理解を頂いております。
一般的に、ロックバンドは見た目などで誤解を受けやすいことも多いので、これは常日頃から感謝している事柄のひとつです。
故に、素直な気持ちを歌詞と曲と歌に込めることができているのだと思います。
なので、これはあくまで仮定のお話になってしまいますが、もしも、いつかこの先、自分の気持ちに反する歌を、どうしても歌わなくてはいけなくなったとしたら。
その時は、潔くこのシーンから僕が離れる時なのかなと思っています。
決して今誰かにそのようなことを言われたわけではありません。
僕自身が音楽を始めた時の様に、純粋に歌や音楽を好きでいたいから、おそらくそうなるのだろうな、という仮定のお話です。
僕はDの音楽のカテゴリーは一言では言い表せないです。
一般的に言うなら「ロック」なのでしょう。
Dが単純な言葉の羅列、音の組み合わせで成り立っているとは思っていません。
表現する上で最も相応しく存在理由あっての「音」と「言葉」です。
なので例え仕事だとしても、自分の気持ちと裏腹に、割り切った感情で音楽を作っていくということは無理なのです。
だからもし、いつかそんな日が来たとしたら、僕はそういう道を選ぶのだと思います。
生き物が誰に習うことなく、自ずから立ち上がり大地を踏みしめるような、自然体でいたいからです。

手紙やファンメール、たくさんありがとうございます。
全部読みました。
いつも心配かけさせてばかりでごめんなさい。
決して何が悪くて、どれが正しい、誰が間違ってて、などということが理由ではありません。
仮にひとつの方向から見て、感じる何かがあったとしても、物事というものは多面体であり、全てを悟ることは人には不可能なのです。
ただ、色々なことが積み重なり、多くのものと自分なりに向き合い、考えてみた時に、僕の中で色んなものが溢れかえってしまいました。
みんなで大きな夢を叶えて、メンバーや関係者の皆さん、友達や家族と、くだらない冗談を言って笑ったり、一緒に曲を完成させてみんなで心から感動したり、ファンのみんなと心を通わせたり、猫と戯れたり、楽しいこともいっぱいあります。
だけど、時々どうしたらいいのかわからないもやもやが、どこからともなくやってくるのです。
白か黒か。
そういうはっきりしたものならむしろ悩んだりはしないのだと思います。
ずっとグレー、最近の天気のように、灰色の雲が厚く覆って、まるで悪夢を見ているような感覚に陥ってしまうことがあるのです。
「Snow White」で「苦しみとは生きている証 誰もが皆抱えてる」と書きました。
この言葉に嘘はないです。
人それぞれに苦しみがあり、生まれてから死ぬまでに、苦しみのない人はいないのだと思います。
それなのに、今ある苦しみから逃れるようにどこか遠くに消えてしまいたい、と思ってしまう自分は、みんなに嘘をついていることになるのだろうか…..?と度々苛んだりもします。
それでも、やっぱり最後は、喜びも悲しみも感情のすべてを言葉と音に変え、なによりも自分に正直な歌を歌い、みんなに聴いてもらいたいと望んでしまいます。
こんな僕が描く音楽に、恐縮にも「救われた」と言ってくれる人達がいます。
惜しむことなく「愛してる」と言ってくれる人達がいます。
救ってもらっているのはいつも僕の方で、僕はほとんど何もしてあげられていないのに、なぜ、そんなにも優しい言葉をくれるのですか?
強くなりたいと、心は願うのに。
強くなると、約束したのに。
今も、そう願っているのに、どうして叶わないのだろう。
どうして僕はこんなにも無力なのだろう。

花曇る遠き空、明日のことさえ、自分のことさえ、未来は誰にもわからない。
僕にはなにができるだろう?
僕にもなにか出来ることがあるはずだと思いたい。
僕から歌をとったら、きっとなにも何も残らないから、やっぱり歌なのかもしれない。
自分の為にも、必要としてくれる誰かの為にも、明日を生きたかった命の為にも、まだ歌いたいし、また歌いたい。
「Genetic World」の感想も、みんないっぱい書いてくれて嬉しかった。
4月から始まるツアー、がんばるね。
いつかまた、迷ったり、立ち止まったりしてしまうこともあるだろうけど、そんな時は少し歩幅を緩めて、みんなのことを思い出すね。
いつも本当にありがとう。

2009/03/06

生憎の天気。
恵みの雨も、時には愁いの雨と感じてしまう日があります。

例えば一羽の鳥がいたとします。
自由と引き換えに得たもの。
籠の中で翼の意味をなくし、ついには歌をも忘れてしまいました。

例えば一匹の獣がいたとします。
寒さと暑さを感じません。
飢えと乾きも感じません。
毛並みも美しいままです。
なのになぜか、眠ったままなのです。

例えば一人の人間がいたとします。
目を閉じていても足は迷うことなく歩みを続け、た。
立ちふさがるいくつもの扉があろうとも迷うことはな、かった。
指先には相応しい鍵をいくつも握ってい、た。

例えば一羽の兎がいたとします。
時間がない。
時間がない。
「首をお切り!」と女王が言う。
僕には立ち止まる時間さえありゃしない。

霧は世界を覆い、誘われるまま眠りにつく。

今はまだ
見たくない
何もかもすべて